第四話 進駐軍のこと
《昭和20年9月以降の記憶》
終戦まもなくして米・英・豪の連合国軍が日本各地に進駐を開始、勿論、海軍の町であった大竹にも、海軍潜水学校や海兵団施設跡地にも連合国の兵隊が大挙してやって来た。
当時の噂では鬼畜米・英・豪の兵隊は勝ちに乗った勢いで何をするか分からない、特に豪州兵は英国で犯した犯罪者を先祖とした流刑地の国、若い女性の外出には気を付けるべしとの噂が広まった。
だが私達の年代は西洋人を見た事が無く、日本軍を負かした軍隊とは一体どんな奴らか一度見てみたいと大変好奇心を持ったものである。
また時を同じくして、大竹の大滝神社に隣接していた海軍関連施設にも、その広い空き地に米軍が仮設キャンプ地にしているとの話しを聞き、一体どんな奴らが来ているのか見てやろうと、友人を誘いその場所まで見に出掛けた。
キャンプ敷地内一帯はテントが林立し、銃を持ったアメリカ兵が彼方此方に立っており、怖さもあって遠目に観察するしかなかった。
その第一印象は、何と日本兵のようなピリピリした緊張感はなく、兵隊の中には上半身裸の奴もおり、見た目では何となく解放的な雰囲気が感じられた。
そして一人一人を見ると、毛髪は茶・黒・グレー・ゴールドと多種多彩(中学の社会科で初めて米国は多人種で成り立った国と知った)その中でも白人は、顔は赤味を帯び鼻高の奥目で背高く、さらに胸幅は厚く毛深くて腕が太い、しかもどの顔も皆サル顔で同じに見え、こんな奴らと取っ組み合いになったら日本兵は負けるなと思った。
さらに驚いたことに、白人兵士の中に黒人の兵士がおり、白人については写真等で想像はしていたが、実物の黒人を見るのは生まれて初めてで、本当に黒いと大変驚いたものである。
余談であるが、戦時中に少年向けの雑誌「少年倶楽部」の中に、作者は忘れたが「冒険ダン吉」と言う連載漫画小説があった。
内容は、日本の少年ダン吉が南洋諸島のとある島に漂着し、結果として、島の土人部落の王様になり、色々冒険を繰り広げるのであるが、この話の中に登場する土人の身体が黒い為、個人的に識別ができず、背中に白色ペイントで背番号を付け分かりやすくしたとあった。
因みに、当時私が読んでいた漫画本は「冒険ダン吉」「のらくろ」「タンタンタンクロウ」は好んで何度も読み返した記憶がある。
だから「冒険ダン吉」の場面を思い出し、実物の黒人を見て成程と思った。
暫く、白人・黒人兵の姿を民家の垣根越しに見ていた所、思い掛けなくそこに二人ずれの白人兵がニヤニヤ笑いながら近寄って来たのには驚き、怖くて足がすくみ逃げ出せずにいると、何か話しかけられチョコレートとチュウインガム(この品名は後日知った)を手真似で、これをお前にやるから食えと言っている。
突然、鬼畜米兵がやって来て、得体の知れない物を食えと言われ一瞬毒入りの食い物ではと思った。
受け取りを躊躇していると無理やり手のひらに握らせ、さらに彼は自分の大きな手を私の頭に置き何かペラペラと言って笑いながら去って行った。
余りにも気持ち悪いので後で捨てようと思っていたら、止める間もなく友達がそれを口に入れてしまった。
その結果、友達は突然目を大きく開き言葉にならない奇声を発したのを見て一瞬やられたと思った。
ところが本人は口をもぐもぐしながら一言「ん~うまい」と言ったのにはタマゲタ。
こんな菓子見た事も勿論食った事も無いと言うので、恐る恐る口に入れてみると、何とこの世にこんな美味しい物があるのかと思った。 チュウインガムなど噛んでいる食い物とは知らず普通の食い物のようにすぐ飲み込んでいた。
こんなうまい物を呉れるのならまた進駐軍を見に行くかと、友達数人と連れ立ち度々出掛けその都度チョコ・ガム・角砂糖・キャンディなど珍しい物を貰った。
その頃の友人の話では、チューインガムは捨てるのが勿体ないので、寝る時は柱に貼り付けて翌日それをまた噛むのだと言っていた。
また余談になるが、当時の国民の食糧事情は、農家は別として一般家庭の食生活は現在では想像出来ないそれは大変お粗末で、とにかく生きる為、危険性のある食物以外は何でも贅沢は言わず食べた。
内容的には、米の飯が食えれば良い方で、配給米の外にトウモロコシとか大豆を潰した物、現在であれば牛の餌に相当する物であったが、それでも食べないよりはましであった。
また少し流通が良くなり麦の配給に切り替わった時の麦飯は、当時では大変うまいと思ったものだ。
こんな状態で、子供のおやつと言えば、精々飴玉(ドロップ)かサツマイモを薄く切って天日干しにしたカンコロイモ(戦時非常食)ぐらいだったと思う。
特に我が家の様に働き手、所謂父親のいない家庭は生活レベルが低いのは当然であった。
それでも私達は、ささやかではあったが三度の食事ができただけでも有難く思っていた。
こんなことが終戦後1年以上は続き、ヤミ米が手に入り始めた頃から食生活も徐々に改善されて来たと記憶するのであるが、当時を体験した人間にしかその全容は理解できないであろう。
話を元に戻そう、あの当時運が良ければ美味い物が手に入る場所、それは進駐軍の居住区域であった。
そう思うと時々その場所に出掛けベースフェンスの外より、じっと内部を窺い悲しい事だが、何か呉れることを辛抱強く待っていた。
兵隊達はよく木陰で食事をしていた、それを外から見てあれは何を食っているのだろう自分も食ってみたいなどと、今にして思えば、本当に卑しく恥ずかしく当時の自分の姿を思い出すと、時代がその様な行動をとらせたのかと悲しくなって来る。
そこで覚えた言葉が「ハロー チョコレート(又はチュウインガム)ワンサービス」と始めて使った敵性語であった。
兵隊達の中にも子供達の目から見て善人と悪人が見分けられており、善人兵が来るとそこに集まり、何か呉れることを期待し、悪玉が来ると蜘蛛の子を散らすように逃げた。
しかし、自分の目から見て米・英・豪兵の何れの顔を見ても正直な話、どの顔もサル顔に見え、特に白人兵は猿はサルでも赤ら顔のマントヒヒに見えたから不思議であった。
西洋人は日本人の事をイエローモンキーと言うらしいが、それは間違いで、奴らこそ猿と同じく奥目で毛深く、今もって人間の先祖であるサルからまだ進化していない人種だと、初めて出会った時から今日に至るまで気の毒だがその印象は変わっていない。
(第四話終り)
第五話 そして時は過ぎ
《終戦から三年後》
さて、時は過ぎ、野球を本格的に覚えたのは小学5年生になったばかりの頃だったと思う。とにかく野球が好きで好きで布グローブを買ってもらった時の嬉しさ、寝る時も抱えて寝た思い出がある。
守備位置は、当時プロ野球選手の巨人軍青田昇に憧れセンター守備で打順は6番か7番、1~5番までは下手なくせに上級生であった。
しかし、残念な事に家が貧乏な為、他の子はユニフォームを着ても、私はいつも普段着でプレーしていたのだが、背番号だけは青田の23番を手作りで大事に持っていた。 絶対忘れられない思い出に、町内対抗少年野球大会があり、ユニフォームの無い自分は参加出来ない悔しさと無念さで一日中泣き明かした記憶がある。
だが試合当日の朝、諦めていたユニフォームを母が、布団のシーツをつぶし徹夜で縫い上げていたのには、驚きと嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいであった。
母は「これを着て一生懸命頑張って、思い出を作っておいで」と言ってくれた言葉と、玄関先で手を振り送り出してくれた姿は、生涯を通じて脳裏から離れない。
今こうしてこの文章を執筆していて当時を思い出し、自然に涙があふれて来るのは、母の愛があったればこそであったと思う。
しかし、試合は3対0で負け、子供心にこんな悔しい思いをしたことはなかった。
この日のポジションはあこがれの青田の背番号23番センター、打順6番(相変わらず下手なくせに上級生が上位打線)、ある回で2アウトランナー3塁の得点チャンスに打順が回り、思い切りバットを振ったが気負い過ぎてセカンドフライでアウト、上級生に散々嫌みを言われ、また自分の不甲斐なさが重なり悔しい思いをしたものだ。
さらに、母親から「いい思い出を作っておいで」と背中を押された事もあり、しょんぼりと家路についた記憶がある。
この試合の経緯を無念の気持ちで母に話したところ「試合の勝ち負けはその時の運、いい経験と、いい思い出を作って来たね」と言われた時の「思い出作り」の意味が強く心に残っている。
一応、昭和20年のみの記事に纏めるはずが、私のタイムスリップの中では年代を越えても母の事だけは絶対に記録の中に加えて置きたいと思っていた。
あの戦中戦後の厳しい生活環境の中で、主人の居ない家庭を守り、6歳年上の姉と私を育んでくれた母に素直に感謝したい。
その母も後年は幸せであったろうか、私が結婚し当面同居の生活であったが、千葉・札幌と転勤し大腸がんで亡くなるまでの6年間は遠く離れ一人で生活していた。享年68歳であった。
(完)
まだまだ書き残した事は多々ありますが、何分自分の過去を暴くようで多少の抵抗感はありましたが、これも自分が歩んできた昭和20年の足跡を辿り、決して忘れることの出来ない当時の記憶を回想し、文章にして皆様にご笑読頂きご評価頂くのも、自分に対して大切な事だと思って執筆致しました。
反面、願わくはこの苦難の時代を、同世代の方々はどの様に乗り切って来られたかその体験談を、また戦後世代の方々にもご感想を頂ければ最高の喜びと思います。
何はともあれ、つたない文章を快く最後まで読んで頂き有難うございました。
札幌在住 山地久徳
【訂正とお詫び】
第三話のタイトルが《回想録》を《回顧録》と記していました。
訂正とお詫びを申し上げます。