第二話 原子爆弾
《昭和20年8月6日前後の記憶》
夏真っ盛り毎日がうだるような暑さ、湿度は高く日陰に座っていてもジワッと汗が出てくる連日の暑さが続いた。
当時は、夏休みでも時々軍事教練の名目で登校しており、上級生は木銃を持ち歩行訓練、我々下級生はモールス信号か手旗信号の訓練をやらされていた。
私は手旗信号の方が得意で多少忘れた部分もあるが、今でも少しは出来る。
さて、あの忌まわしい運命の8月6日も夏休み返上で登校日となっていた。 7時50分全校生徒は朝礼のため運動場に整列し、まず校長の号令で、天皇陛下の御座所である遥かなる宮城方向に向かい、最敬礼を持ってご挨拶(この団体行動は天皇に対する忠誠心の表現)後、校長先生の訓示を受け、朝の一通りの儀式は終わりとなる。
そして休む間もなく、夫々の持ち場である日常の校内清掃作業に入っていた。
この頃の気候は連日雲ひとつ無い素晴らしい天候が続き(この時代はスモッグなど全く無い)この日も透き通る青空であった。
8時15分(原爆投下時刻は上級生になって知ったが文章構成上明記した)ピカッと光線が走った。
誰かが窓を拭いている時のガラスの反射光ぐらいに思っていた。
ところが時間的にどのくらい経過したのか、暫くして突然ドーンと今まで聞いた事もない耳をつんざく強烈な炸裂音が身体を震わせた。
同時に校舎の窓ガラス数枚が割れる音が聞こえた。
一瞬身の危険を感じ、殆どの生徒が目と耳を押さえ地面に伏し、二次異変に備えたのを覚えている。
一般的にはその当時原子爆弾など知らず「ピカ」と光り「ドカン」と来たので「ピカドン」。 これが「ピカドン」の言葉の由来である。
一瞬何事が起きたのか、おそるおそる起き上がり、誰もが周囲を見回していた。その内生徒たちが騒々しく一方向に走り去るのを見て、何事かと思い皆が行く方向に向かって一緒について走って行った。
そこで見たものは、学校の位置(爆心地から我々の学校まで実距離で約35㎞)から海面遠く広島方向を見て、丁度宮島の島がせり出した位置より、今まで見たことも無い雲が黙々と上空に舞い上がっているではないか、「きのこ」のごとく。
その時上級生の一人が「ありャひょっとしたら広島のガス会社のガスタンクが爆発したんじゃァなァかいのォ?」と言う至極当たり前のような会話が聞こえて来たのを覚えている。
何しろ上級生の言葉であり、その時は意味不明であるが納得していた。 まさかあの「きのこ雲」の下で、阿鼻叫喚世界最大の地獄が起きていようとは、夢ゆめ思いもしなかった。
「ピカ」「ドーン」から時間経過と共に、あの「きのこ雲」が雲ひとつ無く快晴の青空に向かって、ぐんぐん広がっていく様子は何とも異様であり、薄気味悪くあれ程晴れ上がっていた青空が、午後にはどんよりとした曇り空になっていった。
後日聞いた話では、爆心地を中心に何km四方か知らないが、黒い雨が降って来たとの事である(我々の地元で雨が降ったか否かは記憶に無い)
その後何事も無く下級生は午前の予定を終了し、家路につく為私達数名が校門を出た時、服装はぼろぼろ両足にはゲートル(脚絆)を巻いていたが片方は素足で手にはその靴を持ち、顔は左頬と耳たぶそして肩の一部の皮膚がただれた中学生に出くわした。
丁度通りかかった年配者と会話を交わしており断片的ではあったが、疲れ切った声で「己斐(こひ・今の西広島)辺りで被爆し交通の便が無いので走って帰って来たが、広島の街は原形をとどめてない」と言っていた。
家に帰りこの事を母に話した処、母の顔色が急に変わったのを良く覚えている。
何故ならば、女学生であった自分の娘が広島に近い五日市にある広島実践高等女学校(現校名 鈴峯女子高等学校)に通学し、当時は、学生も学校ぐるみ勤労奉仕の名目で広島辺りの軍需施設に奉仕に行っていた。
当然8月6日も勤労奉仕に行っていたと思い込み、夫を亡くした直後でもあり居たたまれない思いをしたのではなかったのか。
その娘が夜遅く五体満足で帰って来た時の喜びと安堵の気持ちは、何物にも代え難いものであったと、時に触れて当時を思い出し話す母の気持ちが良く分かった。
後年その当時の話を姉から聞いた限りでは、運良く当日は勤労奉仕が中止になり、被災に遭わなかった事。
ただ早く家に帰ろうにも公共の交通機関(国鉄)が全面ストップしていたとの事であった。
余談ではあるが、今の時代と違い早期連絡手段である電話など何処にもなく、一般的な至急連絡方法は電報ぐらいではなかったのではないかと思う。
では、どの様にして家に帰り着いたのかについては、何人かの被災者の乗った荷馬車に乗せて貰って、やっとの思いで帰り着いたと話していた。
その後も続々と被災者が徒歩で帰って来たが、殆どの人達の着衣はぼろぼろで露出された部分、特に耳たぶ・顔・腕・背等が火傷により痛々しいほど皮膚のただれが目立っていた。
更に悲劇は続く、近所に私と同級生のお姉さんが広島の女学校に通学していたが、被爆直後父親が広島まで娘を探しに行ったが、結局見つからず行方不明であった。
被災者の中には、直接被爆を受けなかった人、即ち身内を探しに行った家族の人、救済に向かった消防団員の人達も、結果的には放射能汚染による二次被害者として、後日ばたばたと倒れ死んで行ったのであるが、当時は放射能汚染など知る由もなかった。
私達の小学校も翌日から被災者の収容施設に早や替わり、大勢の被災者がそれぞれ苦しみもがいていた。私の机のあった場所にも身体が焼きただれた人が畳み一枚を敷き寝ていた。 見るに絶えない人達を、それでも怖いもの見たさで見てしまった。
真夏の暑い盛り、衛生設備もままならぬ時代、ハエが傷口の周りに集まり、看護人がそれを団扇で追い払う様子、時間と共に傷口にウジが湧き、それを割箸で取り省いている悲惨な様子は、言葉で言い表せないほど残酷で悲しい出来事だと子供心に感じていた。
毎日毎日死者の旅路が列をなし、悪臭の漂う学校に変っていった。
ここではっきり主張して置きたい、他人はいざ知らず私は私なりの地獄を見てきた。
私は大げさな表現で話してはいない、部分的な戦争の記録写真や映画を想像や架空の物語で見るのとでは訳が違う、私が実際に見た戦争の姿は、ある日突然、B29が大編隊で飛来し「陸軍燃料所施設への空爆」、広島の「原子爆弾の投下」には直接被災には遭わないまでも、それに伴う、歴史に残る悲惨な情景を自分の目で実際に見て来た。
それは言葉で言い表せる事の出来ない残酷な姿であり、今こうし子供時代に受けた忘れ難い極度な衝撃が記憶として頭に強く残っているから、たどたどしくてもその当時の記憶が表現できるのだと思っている。
今年もノーモアヒロシマ/ナガサキの原爆記念日がやって来る。
被爆され亡くなられた方々に対し、北の国から心静かに御冥福をお祈り致します。
(第二話終わり)
追記
以前「会員の活躍(広場)」に佐藤良生氏の寄稿文「ヒロシマ・被爆の記(前・後篇)」を拝読し、実際に被爆された当時の生々しい体験談と、その後の核廃絶に海外にまで行かれ講演活動をされている内容の文章に感銘を受けました。
これからも益々ご自愛され、更なるご活躍を祈念致します。
札幌在住 山地久徳